いらずの猫 一
化け猫です。

猫が好きでたまらない人が、恐ろしい化け猫を書こうとすると、こんなお話になってしまうという例です。
10回くらいで完結の予定です。
「続きを読む」でお話を読んでください。
■作品一覧■はじめての方へ■
良く晴れた朝、前脚をきれいに揃えて庭石に座り、全身に春の光を受けている年老いた猫がおりました。
目を細め居眠りをしているようにも見えましたが、ぴんと大きく張り出した耳は葉鞘はさやを弾いて開く若葉の音や、一叢ひとむらの湯気のように湧き出した目に見えぬほど小さな虫の
羽音を聞いておりました。
照らされた土から立ち登る気配はこの季節だけの酔うような甘さをもって、嗅ぐ者の吐く息までを艶めかせます。
はさはさと小風を起こして舞い降りたのは、いつもの番(つがい)の雀。
猫がすぐ目の前にいるというのに一向に気にすることなく、土から這い出したばかりの地虫をついばみはじめました。
古びて古びて穏やかな庭。
長い刻(とき)の末に至って、変わらぬ暮らしの中より産み出された確かなものがそこにありました。
「きぬ、きぬは何を見ているの」
目を閉じていた猫に籠かごを手にしたこの家やの主あるじが声をかけました。
猫が眼だけで物事を眺める生き物でないことを、飼い主のせんは長年の付き合いで知っていました。
話しかけられた猫は前脚で顔を一つ撫でたあと目を開き、少し傾かたげた首でそれに応えました。
「そうだね、もうすっかり春だもの、何を見ても奇麗だねえ」
せんは暫しばらく、じっと猫のきぬを見つめていました。
‥‥せんに見つめられることの暖かさ‥‥
それはきぬにとってはこの場の陽の光や真綿の布団より、はるかに心地良く何ものにも代えがたい大切なものでした。
ぱんと音がしてきぬの目の前に虹が出ました。
せんが洗い張りを始めたのです。
絞った布を勢い良く振り広げるたび細かな飛沫が広がり、それが丁度きぬの目の高さで虹を描きます。
きぬは立ち上がり、ゆっくりと庭を渡るとぽんと縁側に上がりました。
そして決まりの場所に身を横たえます。
磨き抜かれて緩く反そった床板の按排(あんばい)、伏目の脹らみ、正目の筋立ち。
脇腹に当たるいつもと変わらぬ感触を味わいながら、きぬもまた、立ち働くせんをじっと眺め続けていました。
雀は今も庭先に居て、せんが一つまみ蒔いた割れ米をついばんでいました。
せんの家は維新の前までは大通りに店を構え手広く呉服の商いなどをしておりました。
しかし新政府が誕生し元号が明治に変わってからは幕府御用の看板が災いしたのか商いの調子が思わしくなくなりました。
過労と失意で身体を壊した父親は維新のあと間もなくに亡くなり、母親もその後を追うように亡くなって、あとには二人の娘が残されました。
店は人手に渡ってしまいましたがそれでも父親の最後の尽力で、わずかばかりの財産とこの屋敷だけが残されました。
それから間もなく姉が縁付いて家を出てしまうと、結局のところ屋敷にはせん一人になってしまいました。
そこに迷い込んできたのがまだ小猫だったきぬでした。
しかしその姿は白々と鼻筋の通った鉢割れでした。
近所の人達はその柄の猫というのは縁起が悪くていけないからと、せんに忠告をしたのですが、せんはそういうことを全く気にかけない性分でしたので、猫をすぐさま家に上げてしまうと、我が子を育てるほどに手をかけて飼い始めたのです。
その頃はまだ二十五、六だったせんにはいくつかの縁談話もありました。
しかしどうしたわけかすんでのところでどの話も流てしまい、一つもまとまることはありませんでした。
近所の人達は「其(それ)見たことか、猫の祟(たたり)だ」と噂し合いました。
それから二十年近くの歳月が流れました。
「いま気が付いたんだけど、今日はまだお前の声を聞いていないと思うんだ。ひとつ鳴いてくれないかい」
縁側で手間仕事の袋縫いをしながら、呟くようにせんが云いました。
きぬは眠っているように見えましたが、くりと耳を動かせ顔を回すと金色の目を開き「にやぁ」と一声鳴きました。
「きぬにはほんと、人の言葉が解るんだねえ」
ほっと笑うと、せんはきぬの鼻先から尾までをゆっくりと眺めました。
きぬは気持ち良さそうに目を閉じましたが、すぐあとにもう一度透き通った目を開き、再び運針を追いはじめたせんの胸の辺りをじっとみつめていました。
つづく

猫が好きでたまらない人が、恐ろしい化け猫を書こうとすると、こんなお話になってしまうという例です。
10回くらいで完結の予定です。
「続きを読む」でお話を読んでください。
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良く晴れた朝、前脚をきれいに揃えて庭石に座り、全身に春の光を受けている年老いた猫がおりました。
目を細め居眠りをしているようにも見えましたが、ぴんと大きく張り出した耳は葉鞘はさやを弾いて開く若葉の音や、一叢ひとむらの湯気のように湧き出した目に見えぬほど小さな虫の
羽音を聞いておりました。
照らされた土から立ち登る気配はこの季節だけの酔うような甘さをもって、嗅ぐ者の吐く息までを艶めかせます。
はさはさと小風を起こして舞い降りたのは、いつもの番(つがい)の雀。
猫がすぐ目の前にいるというのに一向に気にすることなく、土から這い出したばかりの地虫をついばみはじめました。
古びて古びて穏やかな庭。
長い刻(とき)の末に至って、変わらぬ暮らしの中より産み出された確かなものがそこにありました。
「きぬ、きぬは何を見ているの」
目を閉じていた猫に籠かごを手にしたこの家やの主あるじが声をかけました。
猫が眼だけで物事を眺める生き物でないことを、飼い主のせんは長年の付き合いで知っていました。
話しかけられた猫は前脚で顔を一つ撫でたあと目を開き、少し傾かたげた首でそれに応えました。
「そうだね、もうすっかり春だもの、何を見ても奇麗だねえ」
せんは暫しばらく、じっと猫のきぬを見つめていました。
‥‥せんに見つめられることの暖かさ‥‥
それはきぬにとってはこの場の陽の光や真綿の布団より、はるかに心地良く何ものにも代えがたい大切なものでした。
ぱんと音がしてきぬの目の前に虹が出ました。
せんが洗い張りを始めたのです。
絞った布を勢い良く振り広げるたび細かな飛沫が広がり、それが丁度きぬの目の高さで虹を描きます。
きぬは立ち上がり、ゆっくりと庭を渡るとぽんと縁側に上がりました。
そして決まりの場所に身を横たえます。
磨き抜かれて緩く反そった床板の按排(あんばい)、伏目の脹らみ、正目の筋立ち。
脇腹に当たるいつもと変わらぬ感触を味わいながら、きぬもまた、立ち働くせんをじっと眺め続けていました。
雀は今も庭先に居て、せんが一つまみ蒔いた割れ米をついばんでいました。
せんの家は維新の前までは大通りに店を構え手広く呉服の商いなどをしておりました。
しかし新政府が誕生し元号が明治に変わってからは幕府御用の看板が災いしたのか商いの調子が思わしくなくなりました。
過労と失意で身体を壊した父親は維新のあと間もなくに亡くなり、母親もその後を追うように亡くなって、あとには二人の娘が残されました。
店は人手に渡ってしまいましたがそれでも父親の最後の尽力で、わずかばかりの財産とこの屋敷だけが残されました。
それから間もなく姉が縁付いて家を出てしまうと、結局のところ屋敷にはせん一人になってしまいました。
そこに迷い込んできたのがまだ小猫だったきぬでした。
しかしその姿は白々と鼻筋の通った鉢割れでした。
近所の人達はその柄の猫というのは縁起が悪くていけないからと、せんに忠告をしたのですが、せんはそういうことを全く気にかけない性分でしたので、猫をすぐさま家に上げてしまうと、我が子を育てるほどに手をかけて飼い始めたのです。
その頃はまだ二十五、六だったせんにはいくつかの縁談話もありました。
しかしどうしたわけかすんでのところでどの話も流てしまい、一つもまとまることはありませんでした。
近所の人達は「其(それ)見たことか、猫の祟(たたり)だ」と噂し合いました。
それから二十年近くの歳月が流れました。
「いま気が付いたんだけど、今日はまだお前の声を聞いていないと思うんだ。ひとつ鳴いてくれないかい」
縁側で手間仕事の袋縫いをしながら、呟くようにせんが云いました。
きぬは眠っているように見えましたが、くりと耳を動かせ顔を回すと金色の目を開き「にやぁ」と一声鳴きました。
「きぬにはほんと、人の言葉が解るんだねえ」
ほっと笑うと、せんはきぬの鼻先から尾までをゆっくりと眺めました。
きぬは気持ち良さそうに目を閉じましたが、すぐあとにもう一度透き通った目を開き、再び運針を追いはじめたせんの胸の辺りをじっとみつめていました。
つづく
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