星の国
一日中昆虫を眺めていても飽きません。

標本には興味がないのですが、生きている奴の動きや考える様子が面白くてたまりません。何しろいちばん身近な野生の王国ですから。
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ホシノクニ
甘い樹液のたくさん出るクヌギの近くでは、あの夜空の星が雑木林をさまよっているという噂が広まっていました。集まった虫達は蜜のように甘い樹液を忙しく舐めながらも、耳にしたばかりの噂話をしたくて仕方がありませんでした。
自慢の長い髭を震わせて髪切り虫が言いました。
「昨夜も出たって言うぜ」
仲間の多い黄金虫が事情通らしい話しぶりでみんなの注目を集めます。
「ああそうだ、でも昨夜って言うより夜の明けるちょっと前ぐらいの事だったとか、そうじゃないとか」
「星からさ、さーとこう、光が伸びてたなんて話はどうなんだろうね」
黒い身体に紅い縁取りのあるカメムシが言うと、一所に固まっていたマメコガネ達が騒がしく言いたてました。
「わー何か怖い」
「でも星がなんでこんな所に」
「星って虫の仲間なの」
「馬鹿だね」
「見ちゃうと悪いことが起きるの」
「いい事が起きるんだよ」
「ホント」
「嘘かも」
「何が」
「何だろ」
「噂だろ」
「うわさ、うわさー」
それから後はそこに集まった虫達が口々に喋り始めて、話の収拾が付かなくなりました。でもそんな中で何も言わず落ち着いて、樹液を舐め続けていた者がいました。
片方の角が少し欠けたとても大きなクワガタムシです。
……何度も夜に飛んだけれど、星にはほんの少しも近づけない。あれはとんでもなく遠くにあるんだ。それがわざわざこんな雑木林にやって来るはずもないのに、小さいもの達はどうしてこんな馬鹿げたうわさ話が好きなんだろう……
雑木林の虫の中で一番大きな昆虫であるクワガタムシの中でも、とりわけ大きなそのクワガタムシには、この世の中に怖いものなどありませんでした。虫には恐ろしいヨタカやカラスでさえ、そのクワガタムシを襲うことはなかったのです。
じっくり樹液を舐めお腹が膨れた角欠けのクワガタムシは、他の虫達を押し退けながらその樹をのしのしと降りてゆき、木の根元の落ち葉のベッドにもぐり込みました。
クワガタムシを見送った虫達は、林をさまよう星についての噂をそれからもしばらく続けていましたが、やがて話も尽きてそれぞれの虫の暮らす場所へと帰ってゆきました。
どれぐらい眠ったのでしょうか、角欠けのクワガタムシが目を覚ましました。
気が付くと眠っていただけなのにもうお腹が空いていました。落ち葉の中から、のっそりと這い出すと林の中はすでに薄暗く、繁った木々の葉の間を縫った夕方の光が、斜に傾いた金色の帯になって細く射していました。
……身体が立派なのはいいんだが、どうにも腹ばかり減るのが困りものだな……
大きなクワガタムシはそう呟くと樹液の染み出す場所へと、ゆっくり昇ってきます。
えさ場に他の虫の姿はありませんでした。
八月の陽の光をいっぱいに受けたクヌギの樹からはその夏一番と思えるような、濃くて甘い樹液がこんこんと湧き出しています。クワガタムシはその香りを嗅ぎながら、蜜の湧き出す幹のひび割れに取り付きました。
……はー旨いねえ。毎日同じもののようでも、その日の天気でこんなに味は変わるかねえ。それにまた一人だって言うのがいいな。小さい奴等はつまらない話ばかりで騒ぎ立てて、煩くってしょうがない。食事は黙ってするもんだって事を教えてやらなきゃな……
最初のうちはぶつぶつ独り言を言いながら舐めていたクワガタムシでしたが、やがてその素晴らしい味と、つんと匂い立つ爽やかな香りに包まれているうち、うっとりと夢見心地になってきました。
舐めて、舐めて、お腹が膨れると気付かないうちに眠り、また目覚めてはその甘い味を楽しむ。樹の根元の落ち葉の中に帰るのも忘れて角欠けのクワガタムシは樹液に酔ったようになっていました。
やがて陽が落ち辺りが真っ暗になっても、誰にも邪魔されることなくクワガタムシは蜜を舐め続けていました。
夜はすっかり更け、やがて東の空がほんのりと明るさを取り戻すそんな時刻になりました。
それでも雑木林の中はまだ真っ暗でした。
何か大きなものが落ち葉を踏みしめるようなそんな物音にクワガタムシは目を覚ましました。
また落ち葉を踏む音、林の向こうで何かかが動く気配、そして真っ暗な中に光の帯が伸びるのが見えました。クワガタムシは身を固くしましたが、身体の芯は夢見心地のままでした。
……もしかして、なんだっけ……
ぼおっとした頭で考えました。でもクワガタムシが何かを思い出すより早く、それは眩しく輝いて目の前に現れたのです。
さまよう星……
でもそれは星というにはあまりにも強い光でした。ゆらゆらとその星が揺れると林の中のあらゆるものの影も揺れ、木々が捩くれて世界が壊れてしまいそうになりました。しかもその光は明らかにクワガタムシに向かっているように見えました。
クワガタムシは身体に力を込め樹にしがみついていましたが、さらに近付く光を浴びて緊張が限界に達したとき、ふと気が遠くなり足から力が抜けました。
クヌギの木からぽろりと落ちたクワガタムシを受け止めたのは、朝早くから懐中電灯を手に虫取りに来ていた小学生の兄弟でした。
「わー、大きいね」
「すごいよ、こんなの初めて見た」
この収穫に満足した二人は大きなクワガタムシをプラスチックの虫かごに入れると、急いで山道を下ってゆきました。
明るくなって辺りの様子に気が付いたクワガタムシは驚きました。
それはこれまで暮らしていた林の中とは全く違う世界だったからです。
兄と弟が共同で使っているスチール製の学習机の上で、透明なプラスチックの虫かごに入れられて、クワガタムシはそこに並べられた図鑑の背表紙や小さな地球儀を見ていました。頭の上では二十ワットの蛍光灯のデスクライトが光っていました。
「やっぱり大きいね」
「うん、でもさ、山じゃ気が付かなかったけど、角が片方折れてるんだね」
声のする方を見ると二人の兄弟が顔を並べてこちらを覗き込んでいました。びっくりしたクワガタムシは逃げようとしましたが、つるつると足が滑ってなかなか身体が進みません。それでも手足をばたつかせ何とか少し進むと角が何かにぶつかりました。そこには見えない壁がありました。
「取りあえず餌をやってみようか」
「うん」
兄と弟は台所に行くと砂糖をもらい、それを水に解いて綿の切れ端に染み込ませました。
透明な虫かごの上の緑色の網のフタに付けられた、虫眼鏡付きの小窓を開けてその綿を中に入れます。
「砂糖水、舐めるかな」
弟が訊ねるとと兄が答えます。
「クワガタムシは砂糖水が大好物なんだよ」
でもクワガタムシはそれどころではありませんでした。
何とかこのとんでもない状況から抜け出そうと必死の思いで身体を動かすものの、どうにかなりそうな様子もなく、砂糖水になんぞに気持ちは向きませんでした。
「これじゃ駄目なのかな」
「それでいいはすなんだけど、きっと今はお腹が空いてないんだ」
二人はクワガタムシの様子をじっと観察していましたが、ただがさがさと動き回るばかりで、何か変わったことをする様子はありませんでした。
やがてシイタケ山の見回りを終えたお父さんが帰ってきて、二人の捕まえたクワガタムシを見ました。
「やっと捕れたのか。へえ。ずいぶん大きいな。何日も山へ行った甲斐があったなぁ」
そしてしばらくクワガタを見た後で言いました。
「せっかく捕まえたクワガタだけど、こいつは山へ帰してやったらどうだろう」
兄弟は「えー」と声を揃えました。
「せっかく捕まえたのに逃がすの勿体ないけど、こいつは角がちょっと欠けてる。こんなのを友達に見せたら、これじゃいくら大きくても値打ちがないとか言われちゃうかも知れないだろ。そうなるとあんまり可愛くなくなって世話をするのが面倒になるかもしれない。そうなるとこいつが可哀想だ。まだ夏休みは半分以上残ってるんだし、こいつは逃がしてやって、もっとすごい奴を捕まえたらどうかな」
二人はすぐにはお父さんの言う事が納得できませんでしたが、いつまでたっても砂糖水を舐めようともしないで暴れているクワガタムシを見るうち、可哀想に思えてきました。
お昼ご飯を食べるとすぐに二人は山道を上って、クワガタムシを捕まえた雑木林の近くに行きました。
兄が虫かごから角欠けのクワガタムシを取り出しそれを弟の手のひらに乗せます。クワガタはしばらくその小さな手のひらの上を行ったり来たりしていましたが、やがて背中の硬い羽を開くと小さく畳まれていた薄茶色の薄い羽根を広げ、重そうに飛び立ちました。
二人の兄弟はその姿が見えなくなるまで、そこに立って飛び去ってゆく角欠けを見送っていました。
匂いと木々の様子の記憶を頼りに角欠けのクワガタムシは、何とかいつものえさ場へとたどり着きました。
そこには何時にも増して沢山の虫達が集まっていました。
えさ場の端にしがみついた大きなクワガタムシは息を切らせながら言いました。
「さまよう星に捕まっちまってさあ、星の国まで連れていかれてっちまったんだよー」
普段何も言わないクワガタムシが突然そんな事を言い出したのに驚いてみんながクワガタを見ました。
「まだ暗かったけど朝近くだな、俺が樹の上で眠ってるとさあ、突然、光がこう揺れながら俺に向かってくるんだ‥‥‥‥」
角欠けが今日の朝からの出来事を息せき切って話すのを、みんなは呆気にとられて聴いていました。
やがて話し終えた角欠けが少しだけ樹液を舐め、ふらふらと木を降りて落ち葉の奥にもぐり込むと、集まっていた虫達は一斉に喋り出しました。
「噂は噂話だから面白いのに、自分が見たとか言っちゃあね」
「それも星の国まで行って帰ってきただなんて」
「普段無口な人が話を面白くしようとすると凄いことになるよね」
「これからはさまよう星なんてどうでもよくなって、星帰りのクワガタさんの話で持ち切りになったりして」
虫達はそれから後もずいぶん長く笑っていました。
落ち葉のベッドにもぐり込んだ角欠けのクワガタムシはうとうととしながらも、虫かごの中でこっそり舐めた砂糖水の不思議な甘さを思い出していました。
……………

標本には興味がないのですが、生きている奴の動きや考える様子が面白くてたまりません。何しろいちばん身近な野生の王国ですから。
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甘い樹液のたくさん出るクヌギの近くでは、あの夜空の星が雑木林をさまよっているという噂が広まっていました。集まった虫達は蜜のように甘い樹液を忙しく舐めながらも、耳にしたばかりの噂話をしたくて仕方がありませんでした。
自慢の長い髭を震わせて髪切り虫が言いました。
「昨夜も出たって言うぜ」
仲間の多い黄金虫が事情通らしい話しぶりでみんなの注目を集めます。
「ああそうだ、でも昨夜って言うより夜の明けるちょっと前ぐらいの事だったとか、そうじゃないとか」
「星からさ、さーとこう、光が伸びてたなんて話はどうなんだろうね」
黒い身体に紅い縁取りのあるカメムシが言うと、一所に固まっていたマメコガネ達が騒がしく言いたてました。
「わー何か怖い」
「でも星がなんでこんな所に」
「星って虫の仲間なの」
「馬鹿だね」
「見ちゃうと悪いことが起きるの」
「いい事が起きるんだよ」
「ホント」
「嘘かも」
「何が」
「何だろ」
「噂だろ」
「うわさ、うわさー」
それから後はそこに集まった虫達が口々に喋り始めて、話の収拾が付かなくなりました。でもそんな中で何も言わず落ち着いて、樹液を舐め続けていた者がいました。
片方の角が少し欠けたとても大きなクワガタムシです。
……何度も夜に飛んだけれど、星にはほんの少しも近づけない。あれはとんでもなく遠くにあるんだ。それがわざわざこんな雑木林にやって来るはずもないのに、小さいもの達はどうしてこんな馬鹿げたうわさ話が好きなんだろう……
雑木林の虫の中で一番大きな昆虫であるクワガタムシの中でも、とりわけ大きなそのクワガタムシには、この世の中に怖いものなどありませんでした。虫には恐ろしいヨタカやカラスでさえ、そのクワガタムシを襲うことはなかったのです。
じっくり樹液を舐めお腹が膨れた角欠けのクワガタムシは、他の虫達を押し退けながらその樹をのしのしと降りてゆき、木の根元の落ち葉のベッドにもぐり込みました。
クワガタムシを見送った虫達は、林をさまよう星についての噂をそれからもしばらく続けていましたが、やがて話も尽きてそれぞれの虫の暮らす場所へと帰ってゆきました。
どれぐらい眠ったのでしょうか、角欠けのクワガタムシが目を覚ましました。
気が付くと眠っていただけなのにもうお腹が空いていました。落ち葉の中から、のっそりと這い出すと林の中はすでに薄暗く、繁った木々の葉の間を縫った夕方の光が、斜に傾いた金色の帯になって細く射していました。
……身体が立派なのはいいんだが、どうにも腹ばかり減るのが困りものだな……
大きなクワガタムシはそう呟くと樹液の染み出す場所へと、ゆっくり昇ってきます。
えさ場に他の虫の姿はありませんでした。
八月の陽の光をいっぱいに受けたクヌギの樹からはその夏一番と思えるような、濃くて甘い樹液がこんこんと湧き出しています。クワガタムシはその香りを嗅ぎながら、蜜の湧き出す幹のひび割れに取り付きました。
……はー旨いねえ。毎日同じもののようでも、その日の天気でこんなに味は変わるかねえ。それにまた一人だって言うのがいいな。小さい奴等はつまらない話ばかりで騒ぎ立てて、煩くってしょうがない。食事は黙ってするもんだって事を教えてやらなきゃな……
最初のうちはぶつぶつ独り言を言いながら舐めていたクワガタムシでしたが、やがてその素晴らしい味と、つんと匂い立つ爽やかな香りに包まれているうち、うっとりと夢見心地になってきました。
舐めて、舐めて、お腹が膨れると気付かないうちに眠り、また目覚めてはその甘い味を楽しむ。樹の根元の落ち葉の中に帰るのも忘れて角欠けのクワガタムシは樹液に酔ったようになっていました。
やがて陽が落ち辺りが真っ暗になっても、誰にも邪魔されることなくクワガタムシは蜜を舐め続けていました。
夜はすっかり更け、やがて東の空がほんのりと明るさを取り戻すそんな時刻になりました。
それでも雑木林の中はまだ真っ暗でした。
何か大きなものが落ち葉を踏みしめるようなそんな物音にクワガタムシは目を覚ましました。
また落ち葉を踏む音、林の向こうで何かかが動く気配、そして真っ暗な中に光の帯が伸びるのが見えました。クワガタムシは身を固くしましたが、身体の芯は夢見心地のままでした。
……もしかして、なんだっけ……
ぼおっとした頭で考えました。でもクワガタムシが何かを思い出すより早く、それは眩しく輝いて目の前に現れたのです。
さまよう星……
でもそれは星というにはあまりにも強い光でした。ゆらゆらとその星が揺れると林の中のあらゆるものの影も揺れ、木々が捩くれて世界が壊れてしまいそうになりました。しかもその光は明らかにクワガタムシに向かっているように見えました。
クワガタムシは身体に力を込め樹にしがみついていましたが、さらに近付く光を浴びて緊張が限界に達したとき、ふと気が遠くなり足から力が抜けました。
クヌギの木からぽろりと落ちたクワガタムシを受け止めたのは、朝早くから懐中電灯を手に虫取りに来ていた小学生の兄弟でした。
「わー、大きいね」
「すごいよ、こんなの初めて見た」
この収穫に満足した二人は大きなクワガタムシをプラスチックの虫かごに入れると、急いで山道を下ってゆきました。
明るくなって辺りの様子に気が付いたクワガタムシは驚きました。
それはこれまで暮らしていた林の中とは全く違う世界だったからです。
兄と弟が共同で使っているスチール製の学習机の上で、透明なプラスチックの虫かごに入れられて、クワガタムシはそこに並べられた図鑑の背表紙や小さな地球儀を見ていました。頭の上では二十ワットの蛍光灯のデスクライトが光っていました。
「やっぱり大きいね」
「うん、でもさ、山じゃ気が付かなかったけど、角が片方折れてるんだね」
声のする方を見ると二人の兄弟が顔を並べてこちらを覗き込んでいました。びっくりしたクワガタムシは逃げようとしましたが、つるつると足が滑ってなかなか身体が進みません。それでも手足をばたつかせ何とか少し進むと角が何かにぶつかりました。そこには見えない壁がありました。
「取りあえず餌をやってみようか」
「うん」
兄と弟は台所に行くと砂糖をもらい、それを水に解いて綿の切れ端に染み込ませました。
透明な虫かごの上の緑色の網のフタに付けられた、虫眼鏡付きの小窓を開けてその綿を中に入れます。
「砂糖水、舐めるかな」
弟が訊ねるとと兄が答えます。
「クワガタムシは砂糖水が大好物なんだよ」
でもクワガタムシはそれどころではありませんでした。
何とかこのとんでもない状況から抜け出そうと必死の思いで身体を動かすものの、どうにかなりそうな様子もなく、砂糖水になんぞに気持ちは向きませんでした。
「これじゃ駄目なのかな」
「それでいいはすなんだけど、きっと今はお腹が空いてないんだ」
二人はクワガタムシの様子をじっと観察していましたが、ただがさがさと動き回るばかりで、何か変わったことをする様子はありませんでした。
やがてシイタケ山の見回りを終えたお父さんが帰ってきて、二人の捕まえたクワガタムシを見ました。
「やっと捕れたのか。へえ。ずいぶん大きいな。何日も山へ行った甲斐があったなぁ」
そしてしばらくクワガタを見た後で言いました。
「せっかく捕まえたクワガタだけど、こいつは山へ帰してやったらどうだろう」
兄弟は「えー」と声を揃えました。
「せっかく捕まえたのに逃がすの勿体ないけど、こいつは角がちょっと欠けてる。こんなのを友達に見せたら、これじゃいくら大きくても値打ちがないとか言われちゃうかも知れないだろ。そうなるとあんまり可愛くなくなって世話をするのが面倒になるかもしれない。そうなるとこいつが可哀想だ。まだ夏休みは半分以上残ってるんだし、こいつは逃がしてやって、もっとすごい奴を捕まえたらどうかな」
二人はすぐにはお父さんの言う事が納得できませんでしたが、いつまでたっても砂糖水を舐めようともしないで暴れているクワガタムシを見るうち、可哀想に思えてきました。
お昼ご飯を食べるとすぐに二人は山道を上って、クワガタムシを捕まえた雑木林の近くに行きました。
兄が虫かごから角欠けのクワガタムシを取り出しそれを弟の手のひらに乗せます。クワガタはしばらくその小さな手のひらの上を行ったり来たりしていましたが、やがて背中の硬い羽を開くと小さく畳まれていた薄茶色の薄い羽根を広げ、重そうに飛び立ちました。
二人の兄弟はその姿が見えなくなるまで、そこに立って飛び去ってゆく角欠けを見送っていました。
匂いと木々の様子の記憶を頼りに角欠けのクワガタムシは、何とかいつものえさ場へとたどり着きました。
そこには何時にも増して沢山の虫達が集まっていました。
えさ場の端にしがみついた大きなクワガタムシは息を切らせながら言いました。
「さまよう星に捕まっちまってさあ、星の国まで連れていかれてっちまったんだよー」
普段何も言わないクワガタムシが突然そんな事を言い出したのに驚いてみんながクワガタを見ました。
「まだ暗かったけど朝近くだな、俺が樹の上で眠ってるとさあ、突然、光がこう揺れながら俺に向かってくるんだ‥‥‥‥」
角欠けが今日の朝からの出来事を息せき切って話すのを、みんなは呆気にとられて聴いていました。
やがて話し終えた角欠けが少しだけ樹液を舐め、ふらふらと木を降りて落ち葉の奥にもぐり込むと、集まっていた虫達は一斉に喋り出しました。
「噂は噂話だから面白いのに、自分が見たとか言っちゃあね」
「それも星の国まで行って帰ってきただなんて」
「普段無口な人が話を面白くしようとすると凄いことになるよね」
「これからはさまよう星なんてどうでもよくなって、星帰りのクワガタさんの話で持ち切りになったりして」
虫達はそれから後もずいぶん長く笑っていました。
落ち葉のベッドにもぐり込んだ角欠けのクワガタムシはうとうととしながらも、虫かごの中でこっそり舐めた砂糖水の不思議な甘さを思い出していました。
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