いらずの猫 六
ほんとに春になってしまいました。

大阪湾の南の端の淡輪という海岸の浜辺でお弁当を食べました。
海はびっくりするほど澄んでいて綺麗な若葉色のアオサがたくさん打ち寄せられていました。
あんまりにもおいしそうだったので口に入れると、砂で口の中がじゃりじゃりになりました。
それでもやはり春の味がしたのです。
「続きを読む」でお話を読んでください。
■作品一覧■はじめての方へ■
三
まさしくきぬの考えた通り、せんは童女の心持ちとなっておりました。
寝ても覚めても口にするのはお雛さまのことばかり。
しかしその暮らしはきぬが果無(はかな)んだほどに寂しいものではありませんでした。
せんがようやく目覚めたその日のうちだけ、きぬは猫の姿のままでおりましたが、そんな具合では薬を飲ませることも朝夕の支度もできません。
そこできぬはいま一度人間の姿となることにしました。
せんを驚かせぬよう、また日々の買い物にも出られるよう、今度の変化は鏡の前での念入りなものとなりました。ひげ、手足、二股の尻尾と人との違いを一つ一つ直してゆきました。
しかし最後に残った猫の眼だけは、どうしても人と同じにすることができませんでした。
それでも何とか、できるだけ娘らしく見えるようにと身のこなしも整えてから、医者の置いて行った薬を煎じました。そして湯飲みに薬湯(やくとう)を取り、せんの居る寝所の隣の座敷にまで行きましたが、襖を隔てて考え込みました。
‥‥何といってせんの前に姿を現せばいいのやら‥‥
その気配に気付いたのか、華やいだ声が響きました。
「ねえさん、ねえさんね、お雛さまよ、早く、早くこっちへ」
襖を開くなりせんの手が伸びて、きぬの袖を取ると寝所へと引き込みました。
勢い余って二人はぶつかり薬湯が半分ばかりこぼれました。
せんときぬは思わず顔を見合わせました。
‥‥しまった‥‥
きぬは隠しておこうと思っていた猫の目をいきなりせんの目の前にさらしてしまいました。
まじまじときぬの顔を見ていたせんが、やがてふっと息を吐ついて笑い出しました。
「ねえさんったらもう、ほんとにそそっかしいんだから」
その時よりせんの心の中では、きぬが姉ということになりました。
実際、せんはきぬの云うことは何でも良く聞き、苦い薬湯を嫌がることなく飲み、見様見まね、猫舌のにわか賄いも喜んで食べました。
按ずることは何もなく日々は過ぎ、やがてせんの体の調子も以前と少
しも変わらぬほどに回復してきました。
ある日、あまりにせんがせがむので、きぬは陽の落ちるのを見計らい白酒を求めて町に出ました。
しかし桃の節句は遠の昔に終わっていて、いつもこっそりと買い物をしている裏通りでは見つからず、ついには参道の酒屋の店先に行き着いてしまいました。
いくつものランプを門口に照らし、こんな時間だというのに何人もの人が忙しそうに働いています。
それはきぬにとって最も訪れたくない場所でした。
しかし他にあたるべき店もなく、明かりから離れて店のようすを窺っていると、きぬに気付いた店の者が声をかけてきました。
「何かお探しで」
きぬは腕を上げ、袂たもとで顔を隠しながら応えました。
「白酒を」
「はあ、白酒でございますか‥‥はいはい、この先の神社にお納めしているものの残りがまだあったかと、ちょっと樽のようすを見て参ります」
店の中へと戻りかけた男が振り向いて云いました。
「徳利などはお持ちではございませんか」
顔を隠したまま、きぬは首を振りました。
「よございます。この前より使い始めた通いの瓶がありますから、それにお入れいたしましょう」
しばらくして男は透き通った首の長い瓶を手に現れました。
「あいにく、三合ほどしか残ってはおりませんでしたが、これでも宜しゅうございますか」
男はきぬの前に瓶を差し上げました。
ランプの光を受けてきらきらと輝く瓶の中で真っ白な酒が揺れていました。
袂の陰からちらりと見えたそのようすにきぬは心を奪われました。
「これが白酒‥‥」
「はい、さようで、お客さんは白酒を御存知ではないので…」
ふと目の前の娘のことがふと気になりました。
店の男は首をずらせて袂(たもと)の奥をのぞこうとしましたが、それに合わせるように娘は身をよじらせ中の顔は見えませんでした。
「三合には少し足りませんので、ではお代は二合ぶんだけ」
代金を受け取ると、男は瓶を差し出しました。
しかし通いの一升瓶は大きく、徳利のような首紐もありませんでしたので、顔を隠したまま受け取ることは出来ませんでした。
きぬは硬く目を閉じると俯うつむいて両手を差し出しました。
「や、これは、御目(おめ)が御不自由でらっしゃいましたか」
顔を見られたことに気が付いて瓶を抱いたまま、きぬはくるりと後ろを向きました。
「そうではありません」
「ならば埃か何かで」
男は云いながら前へと回り込みます。
するとさらにきぬがくるりと身を回します。
「明るいところでようすをみましょう」
「結構です」
「まま」
「結構」
男が動くときぬは回り、そのうち妙な勢いがついて、きぬはくるくると回りながら辻向かいの細い路地へと入ってゆきました。
「なんとまあ…」
店の男は狐につままれたような顔で、きぬの去った方角をぼんやりと眺めていました。
やがてその手の中のお金はただの小石となりました。
きぬが戻るとせんは大喜びをしました。
「いよいよ、本当の雛祭りが始まるのね」
屋敷中の座敷をまわりきぬが集めたのは明りでした。
二つのランプに古い行灯、百目蝋燭ひゃくめろうそくやいくつもの灯明皿。
せんはそのすべてに火をつけ、お雛さまを置いた座敷のあちこちに置きました。
きぬにはそれが昼間のような明るさに思えました。
それからせんが取りだしたのは二揃えの振り袖でした。
一枚を先ずきぬに着せ付け、帯を締めると云いました。
「これを着ればお雛さまの仲間入り」
そしてきぬの髪を解いてやると、二つに分けて大きく丸く結い直しまた。
仕上げにせんが大切そうに取りだしたのは、細かな細工の簪(かんざし)でした。
「ねえさんは赤い簪、私が青」
晴れ着になった自分の姿を鏡に映して、きぬが飽きることなく眺めるうちに、せんの支度もでき上がりました。
きぬの手を取りせんが云いました。
「さあて、お雛祭りを始めましょう」
それから始めた雛祭りの楽しかったこと。
葛篭(つづら)の上に色物の風呂敷を掛けその上にはお内裏さまとお雛さま。
古びた衣装はそのままでしたが埃をかぶった顔はいつのまにかきれい
に拭き清められ、その前には桃の花に見立てて花色の千切り紙が散らされておりました。
そして庭蔵から探し出した朱塗りの小盃こさかづきを四つ並べると、きらきらと光る瓶から注がれる、真っ白な酒。
お雛様にひとつ、ひとつ。
せんときぬにひとつ、ひとつ。
なにぶんついこの間まで猫でありましたから、きぬが酒を口にするのは初めてのこと、ほんのひとくちでたちまち酔いがまわりました。
せんもやがてほんのりと顔を染め立ち上がると、何やら浮かれて歌舞(うたまい)などを始めます。
その揺れ動く振り袖の色鮮やかなこと。
いつもの座敷でありながら、きぬにはそれが全く知らない別の世界のように見えました。
ねえさんも何かやってとせんに突つつかれ、きぬが思い付いたのはとんぼを切ること、酔った勢いにも乗って大きく飛んで三度四度。
せんもまたそれに驚くどころか、やんやと喜び手を打つのでした。
それから後(のち)、屋敷は夜毎の雛祭りとなりました。
楽しい暮らしでした。
でもそうして暮らすうちに自分の胸の奥に膨らんでゆく、得体のしれない黒いはれ物にきぬは気が付きました。
しかしその正体を確かめることはひどく恐ろしい事のように思えて、深くは考えぬ事としたのです。
つづく

大阪湾の南の端の淡輪という海岸の浜辺でお弁当を食べました。
海はびっくりするほど澄んでいて綺麗な若葉色のアオサがたくさん打ち寄せられていました。
あんまりにもおいしそうだったので口に入れると、砂で口の中がじゃりじゃりになりました。
それでもやはり春の味がしたのです。
「続きを読む」でお話を読んでください。
■作品一覧■はじめての方へ■
三
まさしくきぬの考えた通り、せんは童女の心持ちとなっておりました。
寝ても覚めても口にするのはお雛さまのことばかり。
しかしその暮らしはきぬが果無(はかな)んだほどに寂しいものではありませんでした。
せんがようやく目覚めたその日のうちだけ、きぬは猫の姿のままでおりましたが、そんな具合では薬を飲ませることも朝夕の支度もできません。
そこできぬはいま一度人間の姿となることにしました。
せんを驚かせぬよう、また日々の買い物にも出られるよう、今度の変化は鏡の前での念入りなものとなりました。ひげ、手足、二股の尻尾と人との違いを一つ一つ直してゆきました。
しかし最後に残った猫の眼だけは、どうしても人と同じにすることができませんでした。
それでも何とか、できるだけ娘らしく見えるようにと身のこなしも整えてから、医者の置いて行った薬を煎じました。そして湯飲みに薬湯(やくとう)を取り、せんの居る寝所の隣の座敷にまで行きましたが、襖を隔てて考え込みました。
‥‥何といってせんの前に姿を現せばいいのやら‥‥
その気配に気付いたのか、華やいだ声が響きました。
「ねえさん、ねえさんね、お雛さまよ、早く、早くこっちへ」
襖を開くなりせんの手が伸びて、きぬの袖を取ると寝所へと引き込みました。
勢い余って二人はぶつかり薬湯が半分ばかりこぼれました。
せんときぬは思わず顔を見合わせました。
‥‥しまった‥‥
きぬは隠しておこうと思っていた猫の目をいきなりせんの目の前にさらしてしまいました。
まじまじときぬの顔を見ていたせんが、やがてふっと息を吐ついて笑い出しました。
「ねえさんったらもう、ほんとにそそっかしいんだから」
その時よりせんの心の中では、きぬが姉ということになりました。
実際、せんはきぬの云うことは何でも良く聞き、苦い薬湯を嫌がることなく飲み、見様見まね、猫舌のにわか賄いも喜んで食べました。
按ずることは何もなく日々は過ぎ、やがてせんの体の調子も以前と少
しも変わらぬほどに回復してきました。
ある日、あまりにせんがせがむので、きぬは陽の落ちるのを見計らい白酒を求めて町に出ました。
しかし桃の節句は遠の昔に終わっていて、いつもこっそりと買い物をしている裏通りでは見つからず、ついには参道の酒屋の店先に行き着いてしまいました。
いくつものランプを門口に照らし、こんな時間だというのに何人もの人が忙しそうに働いています。
それはきぬにとって最も訪れたくない場所でした。
しかし他にあたるべき店もなく、明かりから離れて店のようすを窺っていると、きぬに気付いた店の者が声をかけてきました。
「何かお探しで」
きぬは腕を上げ、袂たもとで顔を隠しながら応えました。
「白酒を」
「はあ、白酒でございますか‥‥はいはい、この先の神社にお納めしているものの残りがまだあったかと、ちょっと樽のようすを見て参ります」
店の中へと戻りかけた男が振り向いて云いました。
「徳利などはお持ちではございませんか」
顔を隠したまま、きぬは首を振りました。
「よございます。この前より使い始めた通いの瓶がありますから、それにお入れいたしましょう」
しばらくして男は透き通った首の長い瓶を手に現れました。
「あいにく、三合ほどしか残ってはおりませんでしたが、これでも宜しゅうございますか」
男はきぬの前に瓶を差し上げました。
ランプの光を受けてきらきらと輝く瓶の中で真っ白な酒が揺れていました。
袂の陰からちらりと見えたそのようすにきぬは心を奪われました。
「これが白酒‥‥」
「はい、さようで、お客さんは白酒を御存知ではないので…」
ふと目の前の娘のことがふと気になりました。
店の男は首をずらせて袂(たもと)の奥をのぞこうとしましたが、それに合わせるように娘は身をよじらせ中の顔は見えませんでした。
「三合には少し足りませんので、ではお代は二合ぶんだけ」
代金を受け取ると、男は瓶を差し出しました。
しかし通いの一升瓶は大きく、徳利のような首紐もありませんでしたので、顔を隠したまま受け取ることは出来ませんでした。
きぬは硬く目を閉じると俯うつむいて両手を差し出しました。
「や、これは、御目(おめ)が御不自由でらっしゃいましたか」
顔を見られたことに気が付いて瓶を抱いたまま、きぬはくるりと後ろを向きました。
「そうではありません」
「ならば埃か何かで」
男は云いながら前へと回り込みます。
するとさらにきぬがくるりと身を回します。
「明るいところでようすをみましょう」
「結構です」
「まま」
「結構」
男が動くときぬは回り、そのうち妙な勢いがついて、きぬはくるくると回りながら辻向かいの細い路地へと入ってゆきました。
「なんとまあ…」
店の男は狐につままれたような顔で、きぬの去った方角をぼんやりと眺めていました。
やがてその手の中のお金はただの小石となりました。
きぬが戻るとせんは大喜びをしました。
「いよいよ、本当の雛祭りが始まるのね」
屋敷中の座敷をまわりきぬが集めたのは明りでした。
二つのランプに古い行灯、百目蝋燭ひゃくめろうそくやいくつもの灯明皿。
せんはそのすべてに火をつけ、お雛さまを置いた座敷のあちこちに置きました。
きぬにはそれが昼間のような明るさに思えました。
それからせんが取りだしたのは二揃えの振り袖でした。
一枚を先ずきぬに着せ付け、帯を締めると云いました。
「これを着ればお雛さまの仲間入り」
そしてきぬの髪を解いてやると、二つに分けて大きく丸く結い直しまた。
仕上げにせんが大切そうに取りだしたのは、細かな細工の簪(かんざし)でした。
「ねえさんは赤い簪、私が青」
晴れ着になった自分の姿を鏡に映して、きぬが飽きることなく眺めるうちに、せんの支度もでき上がりました。
きぬの手を取りせんが云いました。
「さあて、お雛祭りを始めましょう」
それから始めた雛祭りの楽しかったこと。
葛篭(つづら)の上に色物の風呂敷を掛けその上にはお内裏さまとお雛さま。
古びた衣装はそのままでしたが埃をかぶった顔はいつのまにかきれい
に拭き清められ、その前には桃の花に見立てて花色の千切り紙が散らされておりました。
そして庭蔵から探し出した朱塗りの小盃こさかづきを四つ並べると、きらきらと光る瓶から注がれる、真っ白な酒。
お雛様にひとつ、ひとつ。
せんときぬにひとつ、ひとつ。
なにぶんついこの間まで猫でありましたから、きぬが酒を口にするのは初めてのこと、ほんのひとくちでたちまち酔いがまわりました。
せんもやがてほんのりと顔を染め立ち上がると、何やら浮かれて歌舞(うたまい)などを始めます。
その揺れ動く振り袖の色鮮やかなこと。
いつもの座敷でありながら、きぬにはそれが全く知らない別の世界のように見えました。
ねえさんも何かやってとせんに突つつかれ、きぬが思い付いたのはとんぼを切ること、酔った勢いにも乗って大きく飛んで三度四度。
せんもまたそれに驚くどころか、やんやと喜び手を打つのでした。
それから後(のち)、屋敷は夜毎の雛祭りとなりました。
楽しい暮らしでした。
でもそうして暮らすうちに自分の胸の奥に膨らんでゆく、得体のしれない黒いはれ物にきぬは気が付きました。
しかしその正体を確かめることはひどく恐ろしい事のように思えて、深くは考えぬ事としたのです。
つづく
コメント
ほんとうにいつもすみません。
しばらく更新をさぼったつもりが、あっという間に一月になって、しまいました。
明日は必ずやります。
しばらく更新をさぼったつもりが、あっという間に一月になって、しまいました。
明日は必ずやります。
コメントの投稿
トラックバック
http://kitazakisirohiko.blog103.fc2.com/tb.php/101-e54a6433
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


アオサですか〜☆
わたしは食いしん坊なので、春の味と聞くと黙っていられません。アオサのように春を告げる海のものも好きですが、タラの芽の天ぷらなど山のものも大好きです。早くいっぱい食べたいな……。
小説、いつも丁寧に書かれていますね。とても続きが気になります☆